あおたんのBLOG~大学生~

大学生の自由なブログ

どうも、あおたんだ。

 

私は、未成年なのだが身近なところで死というものを三度経験した。

 

 

 

私は、小学校の時からバスケをしていて、あれは中学二年生のシルバーウイーク明けのことだ。

 

県内でトップ3に入る位強豪だった私の中学は、シルバーウイークは遠征があった。

 

滋賀県へ行って打出中学などのそこそこ強いところと試合をした。

 

あの頃は、顧問三人と大学生の若いコーチの四名で指導してくれていた。

 

遠征が終わり次の金曜日に学校に登校した。

 

帰りの会の途中、一本の放送が入った。

 

”バスケ部はこの後3の1へ来るように”

 

これを聴いて、私は怒られるんじゃないかと怖くなっていた。

 

帰りの会が終わると、同じクラスのバスケ部の友達と3の1へ向かった。

 

教室に入ると、引退したはずの3年生の先輩と女バスの人もいた。

顧問が来た。

 

顧問は、一言こういった。

 

「(大学生コーチ)が昨日亡くなった。」

 

私たちは、顧問が何を言っているかわからなかった。

 

女バスの人は泣き、先輩の顔も暗くなった。

 

私は、半分信じれなくて家に帰った。

 

TVをつけていると、夕方のニュースでコーチのことを報道していて、一気に現実なんだと思わされた。

 

 

 

あれは、高校二年の夏だ。

 

当時付き合っていた彼女が突然言ったことだ。

 

”私、お母さん居ないんだよね、”

 

最初聞いたとき頭がはてなだったが、話を聞くと、高校一年生の秋に病気で亡くなったそうだ。

 

確かに一年生の秋にその子が午後の授業の途中で先生に呼ばれて、急いで帰宅していたのを覚えている。

 

そういうことだったのかと納得した。

 

あの頃はそんなに深刻に考えていなかったが。

 

高校一年で母親がいなくなるって、相当つらかっただろうし、自分だったら鬱になったかもしれない。

 

強く生きてほしい。

 

 

 

これは高校三年の3月についに一人暮らしを始めるという時のことだ。

 

母子家庭の我が家には私含め3人兄弟と母の四人暮らしにうさぎが一羽いた。

 

私は、末っ子で兄と姉は次々に独り立ちしていき、ついに私もという時だった。

 

母が愛情いっぱい育てていた兎が急死してしまったのだ。

 

最期は母の腕の中で、必死にもがきながら高い苦しそうな鳴き声を上げて、ぐったりとしてしまった。

 

母はずっと泣いていて、母子家庭でいつも強く泣かない母の泣く姿を見て私も泣いていた。

 

その日の晩から、私は気づいていたけど、母は夜な夜な私の寝た後に、兎の亡骸を前にしずかにずっと泣いていた。

 

姉も駆けつけて、母と一緒に泣いてくれた。

 

一週間たってもその悲しみが癒えることはなく、昼は明るく過ごしているのに、夜になると静かに母は泣いていた。

 

そして、ついに私が独り立ちする日が来てしまった。

 

悲しみに暮れる母を一人ぼっちにしてしまうことに罪悪感が湧き、当日の朝母に急げ急げと言われながら準備する中で、泣いてしまった。

 

私は、兎がなくなった時も、心配をかけるからと母の前では涙を見せないようにしていた。

 

私は、泣きながら母に今までの迷惑を謝り、感謝を伝えた。

 

一人高速バスの中でも、静かに泣いた。

 

泣いてばかりの独り立ちだった。

 

 

 

身近であればあるほど、悲しみは強くなることを知った。

 

誰もが経験するであろう親の死、今の私にはこれを乗り越えられる気がしない。